デモクラシーへの誤解・絶望そして希望
ヴ王の見識は正しいか?
・誤解から、本来の性能を発揮できないデモクラシー
日本語で”democracy・デモクラシー”という外来語が、民主主義といういう”主義”で捉えられることで、さまざまな誤解を生み出しています。
この語源はギリシャにありますがギリシャの衰退期では衆愚の意味を強く伴う言葉になっていたと言われています。
英語には別に”democratism/デモクラティズム”という民主主義にあたる単語もあるのですが、なぜかデモクラシーを民主「主義」と多くの人が認識しています。”主義”という呼び方では、固定的で金科玉条のようなものとして捉えがちです。
民主主義という時のもう一つの誤解は、民主主義=多数決と捉えることです。 民主主義は、少数の意見も含めて最適解を目指すことにあります。完璧な合意は難しいものです、それを前提にしながらも納得による統合をつくることにこそ意味があります。
最初にされた認識が「主義」という柔軟性に欠くものであるがゆえに日本では”democracy/デモクラシー”の言葉にある本来の魅力があまり発揮されていません。
これは日本だけの問題とは言えず、”democracy”を母語として使う欧米でも”democracy”は行き詰まりを見せています。英国での国民投票や米大統領選の結果では、統合よりも分断が進んだ社会の様相が浮き彫りになる状況さえ生まれています。
政治というものは、本来、最もクリエイティブな仕事であり、民主制(democracy)は社会をより良くしてゆくという興奮に誰でも参加できる仕組みであると、私は考えます。
・「失政は政治の本質」は慧眼だが正解ではない
トルメキアのヴ王(『風の谷のナウシカ』(原作漫画版)に登場)は、劇中「失政は政治の本質」と言い放ちます。この言葉に当時、小学生であった私はなんとも釈然としない気持ちになり、有り体に言えばショックを受けました。
とはいえ、現在の社会を見渡すと、ヴ王の見識は正しいと言えます。
国立競技場の建て替え問題や、築地市場と豊洲市場の諸問題、東京五輪予算の収拾のつかなさ加減、東日本大地震からの復興の取り組みは公共事業が先行し若年人口の流出減少が続く東北の社会基盤の弱さを再構築するには至っていません。
国際政治でもシリア情勢に解決の緒は未だ見えず、欧州難民問題は100年前のサイクス・ピコ協定に始まるエゴが、ピタゴラスイッチのように跳ね返り、現代のEU社会を揺るがす大問題として降りかかっています。こんな感じで実際の政治は失政だらけです。
政治という社会運営のメカニズムが正しく機能しているかという疑問符が付かざるを得ません。
しかし、失政が多いからと言ってデモクラシーを破棄すべきものかというとそうではありません。また、こうした場合によく引用されるのが第二次大戦の終結の立役者の1人である英国首相チャーチルによる1947年の下院での次の言葉です。
“Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.”
「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主制が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る、これまでに試みられてきた民主制以外のあらゆる政治形態を除けばね。」
この70年前の言葉を受けて、良くないけど他の政治形態よりは良いんだから仕方がないと、諦めととものデモクラシーを受け止めるのも早計です。
70年間という時間の蓄積は無駄ではないはずです。この間に大きな技術革新も実現しています。
・「デモクラシー」が失政になる原因は?
と言いながら結果から述べると、失政が当たり前になる最も大きな要因は、「失政になる情報の流れ方(コミュニケーション)になっているから」であり、それは2つの要因に分けられると私は考えています。
1つはタイムラグです。システム論から政治を見れば、インプット(課題の認識・把握)からアウトプット(政策の策定・実施)までの時間差があるために、政策を行う時点で課題が変化してしまい、政策が処方として課題に対応できないということが構造的に起こってしまいます。これは構造的な失政の原因です。
もう1つは情報共有ができていないこと。情報が共有されないまま主観のぶつかり合いが起こることで、政治家/政党、国民、官僚/行政それぞれの間に信頼感を築く事が難しい構造になっていることも大きな要因です。
政治家は、自身が議員であることによって社会に対して力を行使できるので、議員であること、あり続けることに注力します。国民の支持が常に遠く、ほとんど見えないものであるために良心から政治家となっても、時に利己的になり地位を維持することが合理的な判断となります。
国民は、誰を支持していいのかわかりません。ニュースを見たり読んだりしてもその先がありません。政治家の考えを知る機会が限られている中で、なんとなく支持し、なんとなく批判を行います。ゆえに世論は雲のようなものです。英語でも世論は”public sentiment”であり”みんなの感情”となっています。世論調査は、みんなの感情調査です。急に有り難みがなくなります。
官僚は、批判されることを忌避します。また法に則っているという認識から、間違いを認めない無謬性を誇ることが少なくありません。また仕事は個人ではなく組織として行うため責任の所在は曖昧であり、内部の力学に沿うことが組織内での評価に直結するため、仕事の権限を得るには利己的になることが合理的な判断となります。この点は政治家と似ています。
日本は国民主権の社会です。
その国民の代わりに国政のあり方の議論を行う代議者(エージェント)として国会議員があり、公務員は全体の奉仕者として憲法にも定義されています。英語での”civil servant”は比較的一般にも浸透している単語です。
つまり、社会の立て付けとして、主権者である国民が”さまざまな情報から俯瞰で考え合理的な判断を行うこと”ができることが社会運営の基礎になっています。私達は政治家が信頼できない、官僚はけしからんとかなんとかと、批判を行います。批判は行われるべきですが、それらの批判はほとんど場合、建設的な創造に向かいません。
批判の前に、私達国民は、”さまざまな情報から俯瞰で考え合理的な判断を行うこと”ができているか?ということから点検する必要があります。この部分に欠陥があるとすると、基礎がぐらついているわけですから、不具合が頻発するのも自然なことです。デモクラシーの問題は私達が”さまざまな情報から合理的な判断を行うこと”ができているかという問題です。
この問題を避けている限りデモクラシーへの絶望は終わりません。
でも、避けずに考え抜くことで、希望は見えてきます。