リーダーシップ、その脆弱性と弊害と限界
リーダーシップ
その脆弱性と弊害と限界
リーダーシップってなんとなく頼りがいがあるとか、信頼できるとか、そういった良いイメージが自動的に付随します。しかし、リーダーシップには脆弱性があります。強いリーダーシップの一つのタイプには独裁者が存在していること、そうしたリーダーシップに人類社会や会社組織はたびたび高い授業料を払わされています。
私達はリーダーシップを良いものだと思いがちではないでしょうか。
決められない政治とか言われた状況では、「政治に強いリーダーシップが
求められる」といった感じで記事が書かれたりします。
そうして、求められて強いリーダーシップを実現したリーダーは、頑張り続ける中で、自分とは異なる意見に対して否定的になります。
ここまで実績を挙げてリスクも背負って上手く行った。だから、自分と異なる意見は、これまでの自分を否定するように聞こえてきます。
強いリーダーシップには往々にして強い権限、権力も伴います。
そのため、自分の否定する意見に対して権力を用いて影響力を行使することができます。意見に対してだけ影響力を行使できれば良いのですが、意見とその個人を分けて考えたり、マネジメントを行う術はほとんど普及していません。
そのため、リーダーに否定的な「意見」を具申することは、リーダーに対してその「個人」が否定的であると短絡して認識されてしまいます。
そんなことで仕事への評価が不本意な形になることは、誰だって嫌なものです。すると、考え抜いて意見具申をしても評価が下がるので、黙っている方が合理的選択になります。
このような組織/コミュニティの中では、建設的な本音を言いいにくいので、心理的安全性は低下します。同じ職場で仕事をしている人同士でもでも信頼が育ちません。強いリーダーシップが人々から考える力、イノベーションを阻害してしまうのです。
“カリスマ的リーダーシップによって、経営難にあった大企業のV字回復を成功させながら、楽器ケースに潜り込んで日本を脱出した経営者もいました。”
私達はリーダーシップを求めがちですが「属人的なリーダーシップ」にはこのような脆弱性があります。カリスマ的リーダーシップで経営難であった大企業のV字回復を成功させながら、楽器ケースに潜り込んで日本を脱出した経営者もいました。
リーダーシップを誇るリーダーに評価されることが自分自身の評価にもつながるようになると、周囲と信頼を育んで協力するよりもリーダーに評価されることが合理的になります。すると、新しいことへの挑戦がしにくくなり、経営そのものが停滞します。(上図参照)
これは企業でも行政(政府)でも同じです。リーダーシップはリーダーが参照すべきプログラムがなければ堕落したり、暴走する性質があります。リーダーによる経営の限界は、属人的なリーダーシップには限界があると考え、数値や成果といった客観的評価を重視する動きにも繋がりました。
とはいえ、成果主義や能力主義などの客観的評価は、単語としての聞こえは良いのですが、根本部分に問題を抱えています。
最も理想的なリーダーシップは、個々人が自分自身に対して主導=リードできる、個々人のリーダーシップであり、個々人のリーダーシップの総体としての組織であり、社会です。しかし、一般的には実現できていません。
かつては、強いリーダーシップが有効に機能する時代がありました。しかし、21世紀の現代は、強いリーダーシップによって組織やコミュニティ、地域や社会の課題が解決するほど、私達の社会は貧しくなく、単純でもありません。前世紀や昭和の枠組みでリーダーシップを考えていては行き詰まってしまうのです。