現在は不可能な国民的議論を可能にする『ポリネコ!』
“国民的議論を行う方法を実は持っていないことが、
日本社会や民主主義の社会が停滞する根本要因ではないか?
そして、シビックテックやガブテックはここを無視できないという話”
“The story that we don’t actually have a way to have a national debate
Isn’t that the root cause of stagnation in Japanese society and democratic society in the world? and civic-tech and gove-tech cannot ignore this issue.”
いまは不可能な国民的議論を可能にする『ポリネコ!』
国民的議論は可能か?
私達の目の前には、コロナ禍への対応をはじめ、格差の拡大、大学のあり方、エネルギー政策、社会保障、人口減少など国民的議論が必要な社会課題がたくさんあります。
多くの専門家の論説や、新聞、テレビの論考の結びに、”これからの国民的議論が不可欠”といった記述を見たことがない人はあまりいないと思います。
しかし、2020年で暮らす私達が国民的議論を行う手段、方法を持っているか?というとかなり怪しく、明確に、これを行えば国民的議論ができるという具体像を持っている人はいないのではないでしょうか。あれば教えていただきたい。
そう。私達は国民的議論を行える環境にありません。
現在のメディア環境は下図のようにまとめられます。
テレビは視聴率の低下傾向が続いています。また視聴者層の高年齢化も進んでいます。新聞の発行部数も低下傾向が続き止まる兆しは見えていません。どこの家にも新聞(紙)があった状態は過去のものになりつつあります。
また、世論調査は内閣支持率や政策への評価などのニュースで紹介されるように小泉政権以降なっていますが、回答者が聞かれている事柄についてよく知らなくても回答できてしまう弱点があります。この弱点を抱えたまま数字が独り歩きする傾向があります。
TwitterやFacebookといったSNSは数%のユーザーの投稿が、一気に拡大して世論のように見えてしまう特性があります。
ついでにといってはなんですが、私とデロイトトーマツコンサルティングとの共同調査で、自治体コミュニケーションがほぼ機能不全に陥っていることも明らかになっています。この「自治体コミュニケーションを展望する調査2019」では、回答をいただいた約8割の市や町で、広報・公聴について検証を行っていないことや、半数以上の市や町で、若年層の声を聞いていないことが明らかになりました。
国政レベルの国民的議論、地域レベルでの地域を挙げた議論ともに極めて困難な状態です。この困難な状態が日本の「失われた30年」の背景にあります。
国民的議論ができない、バックミラー社会
それは本当か?と思われるかもしれません。でもひとつ質問します。
私達はどんな社会を目指しているのでしょうか、その答えをお持ちですか?と。
戦後の焼け野原から、どんな社会を目指すか?について議論をする必要がありませんでした。「豊かさ」の獲得こそが国民の総意でした。
その総意がさまざまな政策の基軸となることで、いくらかのブレはあったものの意思決定、政策形成には一貫性があり、他国にはなし得なかった国民が豊かになることと、社会が豊かになることが両立する経済成長を実現することができました。
それが崩れてくるのは80年代後半、つまりバブル経済期で「豊かさ」が達成されたように勘違いできる程度に豊かになった時代からです。
この勘違いから「豊かさ」の次の形を見出すことよりも、無駄を削る、効率化を進める、選択と集中といった改革が進められるようになり、未来に向けた投資は控えられるようになります。それが続いて現在に至っています。
自動車に例えると、フロントガラスが目隠しされて、前例と過去の実績や成功体験だけを見て運転している自動車に問答無用に乗せられているようなものです。
国民的議論を通じて、未来に向けた投資が行えていたら、2020年現在の日本とは違う日本になっていたのではないでしょうか。少なくとも、先進国の中でも低成長で、教育への公的支出が少なく、子の7人に一人が貧困状態であり、格差が拡大する社会は選ばれなかったはずです。
ここに社会コミュニケーションのメカニズムエラーが存在しています。
国民的議論を可能にする「ポリネコ!」
エラーとは、国民主権の社会でありながら、わたし達国民が主権者として意思表示できるコミュニケーションの仕組みがほぼ皆無であることです。
主権とはかつての王や皇帝が持っていた社会運営の最高権力です。これを数多くの数十万や数億人の国民が持つという発明が国民主権です。その最高権力を持つ者としてわたし達は、社会運営の関わる諸課題について、知り、学び、考え、意思表示することが求められます。
その上で、意思をエージェント(代理人)である統治者に委ねて社会運営を行っていくのですが、私達主権者が、日々の事柄に忙殺されて知り、学び、考え、意思表示することを怠ると、委託しただけの統治者が勝手気ままに振る舞えるようになってしまいます。
その上、社会目標がなければどうなるかというと、委託されたエージェントである統治者が権力者となります。意思決定は権力者の影響を強く受けるようになり、法ではなく、属人的な要素が統治に強く影響するようになります。忖度が重なることで、個として考えることを控える集団浅慮(グループシンク)が発生し、社会の危機対応力が低下します。
数え切れない失政、悪政による数え切れない犠牲や不条理に抗う術として、国民主権という発明に至りながら、それを使いこなせず、法治より徳治、人治に依存した社会運営となることは文明の後退を意味します。
エラーを起こす最も重要な要素は、私達が、知り、学び、考え、意思表示することがあまりに面倒で得るものが少ない状況が続いてきたこと、それが当たり前に思われてきたことにあります。
言い換えれば、社会や地域の課題、目標(ビジョン)などについて知り、学び、考え、意思表示することを手軽に行える方法、コミュニケーションの仕組みがあれば、エラーのかなりの要素を解消することできます。これに応えるのが「ポリネコ!」です。
ポリネコ!=Political Needs Coordinatorの頭文字からできています。
「立場の異なる人々が共通のUIで、共通の情報を参照しながら、社会課題について知り、学び、考え、意思表示し、つながりや差異を確認しながら、一緒に考えることを実現する輿論調査機能を備えた政策形成メディア」です。
コミュニケーション構造はこの図のようになります。
立場の異なる人々の例として、住民・関係人口と議員を置いていますが、若年層と大人世代でもいいですし、A市とB市の人々でも同じです。国民と国会議員でも同様です。
その立場の異なる人々が、スマホやタブレット、PCなど共通のインターフェースで共通の情報を参照しながら設問に答えることで、お互いに何を考えているのかが判るようになり、お互いにとっての最適解を見いだせるようになります。
図をご覧いただくと判るように、回答は下から上に上がり、そして循環しています。回答は一度きりではなく、何度でも上書き回答ができるようになっています。この構造によって、データやファクトなど参照すべき事柄に変化があっても直ぐに対応ができます。
政治の立脚点は、私達であり、私達が目指す目標でなければなりません。しかし、現状、その実現が難しい。その理由は、データやファクトに基づいて知り、学び、考え、意思表示することのハードルがあまりにも高いことにあります。もっと気軽に、誰もが主権者として意思表示できる環境を「ポリネコ!」は実現します。
デジタル社会とは、DXでも同じですが、個人を簡単に支配できる社会です。
だからこそ、主権者と委託先の統治者(行政を行う存在)の間のアカウンタビリティのデザインに重い意味があり、個人の裁量の質と量の拡張が必要不可欠となります。
ここを軽視して、ただ、便利、安い、速い、スマート、おしゃれに走ると、私達が家畜のように管理される地獄(ディストピア)になります。
いま、人類文明はコロナ禍への対応と並行して、この社会デザインの選択を競い合っています。
中国のような権威主義、北米のような資本主導(企業主導)、欧州のような法治主義があり、中国は経済成長、科学技術の発展には成功しながらも香港やウイグルに見えるように抑圧的な環境となっています。北米では企業がデータを欲するあまりスーパーシティの試みが住民の反対で頓挫しており停滞しています。欧州の指針はエリート層が決めており、社会の誰もが参画できておらず硬直的ではないのかという懸念があります。
こうした競争環境の中に、日本社会が存在しています。私達が、知り、学び、考え、意思表示し合うことから、柔軟に迅速に、意思形成ができるようになれば、中国、北米、欧州の良いところを参照しつつも国民主権に基づいた最新バージョンの社会デザインを実現できます。
私達が政治家の考えを知らないように、市議会議員でも国会議員でも市民や国民の考えをほとんど知りません。だから、全体のことを考えるよりも、一部の支持者さえ向いていれば得をするという悪しき構造が機能し温存されています。熱意あふれる政治家志望の方がいつの間にか既得権益に組み込まれることは自然、かつ当然のことなのです。
しかし、この悪循環を断ち切らなければ未来はありません。
この悪循環は国民的議論が可能となることで断ち切られます。相互に信頼が生まれることから、私達が政府を信用できるようになり、政府が国民を信用し、未来への投資が可能になります。ただのデジタル化や手続きのIT化・オンライン化では信頼形成には繋がりません。
知り、学び、考え、意思表示し、一緒に考えることをいつでも、どこでも手軽にできるようにする環境づくりが本丸であり、生存戦略の要です。
ここまでの長文を読んでいただきありがとうございます。
79年前の12月7日は真珠湾攻撃が行われた日です。
当時の日本にも、国民的議論をデータやファクトに基づいて行う方法がありませんでした。そして300万人以上の生命が失われ、その影響は今日に続いています。こういう話でビジネスを考えている方ともっと繋がりたいので、お気軽にご連絡ください。